2021-04-09 第204回国会 参議院 東日本大震災復興特別委員会 第4号
例えば、明治三陸津波では、安政の三陸はるか沖地震の緩やかな津波の経験者が油断して犠牲となったなどの教訓を広報誌を通じて周知をしてございます。また、災害遺構から地域の防災を考えるため、例えば慶長三陸地震で運ばれたと伝えられる宮古の田老地区の津波石から地域の災害規模を知ることなどを全国で活躍する防災の担い手のネットワークで共有、発信をしてございます。
例えば、明治三陸津波では、安政の三陸はるか沖地震の緩やかな津波の経験者が油断して犠牲となったなどの教訓を広報誌を通じて周知をしてございます。また、災害遺構から地域の防災を考えるため、例えば慶長三陸地震で運ばれたと伝えられる宮古の田老地区の津波石から地域の災害規模を知ることなどを全国で活躍する防災の担い手のネットワークで共有、発信をしてございます。
ちなみに、この自然の災害の伝承碑でありますけれども、名取市の閖上には実は昭和三陸津波のこういったいわゆる碑文がございました。
岩手県の田老町ですか、一八九六年の明治三陸津波で千八百五十九人の命が奪われました。一九三三年の昭和三陸津波でも九百十一名が犠牲となっております。また、一九七八年度に、高さ約十メートル、全長約二・四キロの巨大な防潮堤を完成させております。また、二〇一一年の東日本大震災の巨大津波に、こういう防潮堤が完成しても百八十一人が犠牲になっておられます。
次に、防災の教育面という点でちょっとお話をしたいんですけれども、有名な歴史学者の磯田道史さんが、五百年に一回ぐらい起きていて、ちょっと読ませていただきますが、仙台平野は約二千年前、約一千百年前、貞観津波、四百年前、慶長三陸津波、そして二〇一一年と、はっきりしているが、二千年間に四回もの大津波に襲われている、いずれも内陸四キロ前後まで浸水云々とあります。
三陸地方だけじゃなくて太平洋岸地域というのはもうほとんどどこもそうなんですけれども、近代に入ってからでも、例えば一八九八年の明治三陸津波、それから、一九三三年、これは昭和八年ですけれども、三月三日というふうに聞いていますが、昭和三陸津波がありました。
もう一つ、チリ地震の関係で、東北大学の佐藤助教という方、災害社会情報学の方がお調べになったことですけれども、岩手、宮城両県の約四百地区を調べたところ、津波碑がある地区の方が犠牲者が四分の一程度少なかったということが彼の調査ではあるということで、地震があったら高いところへという碑が、明治三陸津波、一八九六年、チリ地震、先ほど平野先生がおっしゃっていましたけれども、一九六〇年、被災した岩手、宮城の両県にはこの
内閣府では、平成十五年度から平成二十二年度まで、災害教訓の継承に関する専門調査会というのを開催させていただきまして、例えば富士山の宝永噴火、あるいは安政の南海大地震、あるいは明治三陸津波など、過去の二十四災害について報告書を作成して、現在もホームページで公表させていただいています。
そしてまた、今度は昭和三陸津波の中で、同じ田老町なんですけれども、五百五十九戸中五百戸、流失、半壊、全壊です。二千七百七十三人中九百一人が亡くなるという大変な被害です。それでも復活するんですね。 当時は今みたいにこんな制度なんかないです。
一八九五年でしたか、明治二十九年になりますけど、九六年ですね、明治三陸津波。それから、一九三三年の昭和三陸津波。それから、一九六〇年には地球の裏側からわざわざ来なくてもいいのに津波が来ました。チリで観測史上最大の地震が、モーメントマグニチュードで九・四というとてつもない地震が発生しまして、その津波が三陸を襲ったということでありまして、そして今回の二〇一一年の東日本大震災の津波。
明治三陸津波のときは、ある町では人口の八割が亡くなっています。同じその町が、昭和三陸津波のときに五割ぐらい人口が亡くなるんです。それでもきっちり復活して、人が増えて、水産業でもって発展してくるわけです。 それで、その背景にあるのは、もちろんその地域の努力というのが物すごいあると思います。ただ、明治三陸津波のときは、政府の支援なんかほとんどないです。鉄道もできていない、道路もできていない。
そして、津波の、全体の地域について大ぐくりの話をちょっと聞きたいと思いますけれども、明治三陸津波、これは今から百二十年前の津波でした。それから、一九三三年、昭和三陸津波ということになります。
今御指摘の、L1津波として明治三陸地震のシミュレーションを採用することが過大ではないかということかと存じますが、明治三陸津波は、実際の痕跡から見ると地震の規模に比べ津波の規模が大きくなるという、そういう意味では特殊な特性を有するものでありまして、沿岸全体で一つのシミュレーションを行うと海岸の計算値が大きく推定される、痕跡より実は大きくなる可能性がありますし、痕跡のないところは実際より大きくなる可能性
明治三陸津波のシミュレーションからその最大値に設定したようだが、そんなことは専門調査会は言っていない、明治三陸津波は特別なケースで、モデルにすること自体が間違いだ、専門調査会は頻度の高い津波は防潮堤で守るという方針を示しただけだ、従来の高さで粘り強くすればいいだけのところもある、巨大堤防だけ残ってどうするんだという思いだと述べています。
国交省などが防潮堤復旧の考え方を立案する基になりました中央防災会議の津波の専門調査会の河田惠昭座長も最近は、これは過大であると、こうしたものができることを専門調査会は想定をしていなかったと指摘をしていますし、レベル1の防潮堤の高さは主に明治三陸津波や昭和三陸津波、チリ地震津波の高さから算定されたもので、それにより、防潮堤の高さが数十年から百数十年に対応するものではなく数百年に一度の防潮堤の高さになってしまっているというふうに
そもそも、数十年から百数十年に一度の津波が、沿岸でどのような動きをするのか、どのような高さになるかなどの細かいシミュレーションをこれほとんど行わないまま、主に明治三陸津波や昭和三陸津波、チリ地震津波における最大の津波痕跡高から一律に防潮堤の高さを決めていきましたので、これはやはり過大になるわけですよね。 なぜ、そういったシミュレーションを細かく行わないんでしょうか。
実際、三陸沿岸におきましては、明治三陸津波、昭和三陸津波、チリ地震津波など、三十年から四十年に一度程度の間隔で津波が発生しております。防潮堤につきましては、東日本大震災のような最大クラスではなく、このような比較的発生頻度の高い津波を対象として設計することを基本としております。
三陸沿岸におきましては、明治三陸津波、昭和三陸津波、チリ地震津波など、三十年から四十年に一度程度の間隔で津波が発生しております。防潮堤につきましては、東日本大震災などの最大クラスではなく、このような比較的発生頻度の高い津波を対象として設計することを基本としております。
具体的に申し上げますと、例えば三陸沿岸におきましては、明治三陸津波、昭和三陸津波、あるいはチリ地震津波、こういったものを対象として海岸堤防の設計を行っております。 高さにつきましては、海岸保全施設の技術上の基準を定める省令におきまして、原則として、設計津波等の作用に対して、海水の侵入を防止する機能等が確保されるよう定めるものとしております。
東北地方の三陸沿岸におきましては、明治及び昭和の三陸津波などのレベル1の津波が三十年程度の間隔で起きておりまして、このようなレベル1津波による被害を防止するよう防潮堤の高さが設定されております。
そこで基準として示しているのは、明治三陸津波、昭和三陸津波、チリ津波、ああいった比較的頻度の高いそういう津波に対しては、ハードで何とか対抗し得るというような高さ。しかし、それを超える、今回のような大きなものになってくれば、これは、とにかく避難をする、人命第一ということで、予知もやり、避難をしっかりと計画的にしていくという多重防御という考え方です。
この高さについて、考え方は今までもるるこの国会でもありましたが、比較的頻度が高いというよりも、要するに三陸津波であったりチリ津波であったり、およそ百年前後といいますか、数十年から百二、三十年ぐらいになるんでしょうか、そのぐらいの頻度の津波についてはハードで対応しようということで、高さを大体推定して、それについては地元で各県等において関係市町村と調整の上公表した新たな堤防高、これは九月から十月において
それぞれの、昔の明治の三陸地震津波の来た位置、あるいは昭和三陸津波で来た位置も、ちょっと見にくいですけれども、線でかいてあります。今回、そこをはるかに超えて来た。
宮城県は、整備する堤防の高さについて九月に方針を出していますが、気仙沼では、湾内最奥の一帯は六・二メーター、その前面が五・〇メートル、その外が七・二メーター、こういうふうになっていて、これは明治三陸津波を想定水位としたということであります。
また、津波についても、明治三陸津波、これは二万二千人が亡くなられ、三十八・九メートルという津波が記録されている。また、昭和三陸津波も同様な、被害者はそれほどではなかったんですが、高い津波が記録されております。
村は、一八九六年の明治三陸津波と一九三三年の昭和三陸津波で計四百三十九人の犠牲者を出したために、当時の村長さんが十五メートル以上を主張をして、その防潮堤について一九六七年に県が五千八百万円を投じて、水門も同じく県が八四年に三十五億円を投じて完成したものと承知をいたしております。 私の感想としては、今回の震災の様々な教訓を糧としなけりゃならぬと、このように思っております。
これまで地震と津波による被害、災害は、我が国有史以来たびたびあったと思うんですが、古くは明治のころに起こった三陸津波では、二万人を超える人がその犠牲になっている。 近くは、あれはいつでしたか、平成五年の夏だったですね、北海道南西沖地震で、奥尻島やその他で死者が二百二名、行方不明二十八人、これなどは、地震が発生してからわずか四分で津波が来た。しかも、夜間だったということであります。